スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-)

難関大学に。 

大学生にとって大学とは、節目にあたり、やりたいこと、適性、時代の変化やニーズを読みとり、生き方を考える場所であり、時代であると私たちは考える。
進学前に方向が決まって学生の場合でも、間違いのない選択かどうかを再考してみては 学生に求められるもの




 自分で考え、事柄の真実を見極め、自分の知性と良心にかけて行動できる主体として、自立する力量をつけることが大学時代に求められている
 大学では、与えられる知識・情報を批判的に再吟味することが重要であり、この「批判的再吟味」は研究を含んでいると考える。
参考書や講義から得られるすべてを批判的に再吟味することが、学生の態度として重要なのだ。…高校と違って、大学では学生を「大人」として扱う。
授業とは違い、ある意味では「通説」や「常識」を疑うことを教えられるのが大学の授業だ。授業に課外活動やアルバイトなど、多忙すぎる学生時代を避けるためにも、改善の方向としては、第一に週当たりの受講科目を減らすこと、第二に学生諸君の選択による時間割の「自主編成」が求められる。
大学とは学びの場である。
学びとは、講義や演習のみをない。サークルや自治的諸活動、ボランティア活動を含めた大学生活全体での学びを言う
 何のために学ぶのか―こう問いかける間さえ十分とれず、追い立てられるがままに突き進んで来なかったか。
この問いは問うても問うに値する問いなのだ。そこに真の学びのヒントが隠されてもいる。大学で身につけるべき能力と就職
 …創造的な仕事のためには、その担い手の側が、柔軟な思考力を保持していなければならず、そのためにはつめ込み型教育・学習ではなく、個性的=複眼的で偏らない知識を持つ、またそうした思考のできる人間として各人が自由に育つこと、このことが最も重要になってきている、ということなのだ
関わりのない仕事に就いている。
社会的に見てたいへんな損失ではないかというある。学生たちは講義を通して体系的にものをとらえ、論理的に思考する方法を学ぶことができるし、ゼミでの発表を通して資料収集のし方やレジュメの作成方法、プレゼンテーションやディスカッションやディベートの技術などを身につけることができる。大学とは何かについての私の考えを述べる.
大学に行くのか,当然のこととして,あまり考えたことがない人が多いだろう.考えをもつということが大切だ.私は北西部,六甲山系に連なる山の麓の丘陵地帯に住んでいる.
昔は田畑の広がる農村であった.狐や狸もいた.いわ)神社という古い神社がある.鳥居をくぐると左手に「力石」という大きな石が置いてある.
この辺りの村では,この力石を持ちあげると一人前と認められ, 耕す畑などが割り当てられたそうである.どんな社会も一人前として認められるための関門があった.
江戸時代は農業が基本で,農村においては, 農業に従事できる力があるかどうかが肝心なことだから, 大石を持ちあげることが,関門を通過するための試験科目であった.
死ぬまでに経過する,誕生,成人,結婚,儀礼を「通過儀礼」という. 大石を持ちあげるのは,大人に通過儀礼であった.社会では大人になるための通過儀礼は何なのだろうか.
「成人式」は成人したうえでの式であって,通過儀礼ではない. 最近は完全に形骸化してしまっている. 近代社会では産業を担う働き手となるために学ばねばならないことが多岐にわたり, 教育制度が大変複雜になった.
近代社会で,現実に,一人前の人間であるかどうかを試すものとして機能している仕組みの一つが, 大学入試・大学生活・就職と一組になった大学という制度であった.
明治時代に大学制度ができて以来, 大学は大人への関門の一つという江戸時代の力石と同じ機能を果たしてきた.
それが今日,まったく変わっている.
自らの幸福にもつながるという時代があった.
個人が努力することで高等教育を受ける機会を獲得し, その高等教育を媒介にして個人の生活や社会的地位といった利益がもたらされるとともに, それが同時に社会発展であるとされていた. ひと昔前は,ために「いい大学」を出ることが, すなわち社会に貢献をするということであった, 少なくともそういう幻想が一般的に成立していた.苦学しつつも機会は均等であった.そのような幻想は崩れている.
人々は幸せになったか.フリーターとかニートとか横文字の言葉で青年の一つのあり方を形容している.
明確に言うのをはばかられるときカタカナでごまかすというのが, 日本語におけるカタカナの一つの用法である.生き方は,青年に責任があるのではない.
社会発展と一体となった大学のあり方が,根本から問われている.高校では悲しいことに,勉強することが,内的な必然性をもたず, つねに立身出世のための「手段」でしかなかった.
感受性が鋭く人間性あふれる高校生ほどこの矛盾に苦しむ.

私は,このような時代こそ,客観的な姿をおさえつつ, そのなかで能動的に生きることを模索してもらいたいと願っている.
今,ために大学に行くのか.
そんな課題を自分に課して大学生活を送る.そのための大学だ. 一昔前は,そこまでを高校のうちに考え,その上で大学を選んでいた.今は実際問題として,将来を考え,進む方向を決めてゆくのが大学時代である.大学には膨大な資料と情報が蓄積されている.
「なぜ働くのか」に答えてくれはしない.
この問に答えることが,勉強する自分という人間を見つけるということだ, それはつまり内面において大人になることである.それが,今日,一人前の人間であるかどうかを試すものとしての大学の中味である. 大人への通過儀礼を自ら設定し,これを生きぬく,それが大学生活というものだ.性格やある程度の特性や,どんなことがしたいのかを考えて, そして実力を考慮して,比較的自分と合いそうな大学を選ぶ.
大学に入って,多くの場合,自分が本当にしたいことは気づくのだが, そこからが本当の大学生活のはじまりである.
外面的に大人になるということはどちらでもよい.
一人一人の内側で自分というものができていくことは,大切なことである.ために自分にあった大学に入る,ということである.関門にすぎない.
大学に入ってからが大切だ.
周りにも大学生になって試行錯誤を重ねる人が多い.頃から遊びたいことをおさえて勉強,みごと東大理一に合格した. が,大学ではサークルなどやっているうちに希望の学部へ進めず留年を重ね,結局中退.大学に入り直しって卒業した人.挫折と新たな大学での大人への再生.大学生活は大人への関門であった. 京大農学部の学生で一年休学して日本中を自転車で放浪,その後東南アジアで社会活動をしている人. 彼らはそれぞれに真剣に大学生活をおくったともいえる.新聞報道では京大総合人間学部では学年の三分の一が留年している.留年すること自体が悪いことではない. が,京大総合人間学部で留年した三分の一のうちどれだけが「意味のある留年」なのだろう. 大半は大学に入って目標を喪失し,その後の新しい試みを始められていないのではないかと思われる.
大学時代を有意義に送れるかどうかが,どんな受験勉強をするかということと深く関係する.
大学とは,生き方をつくりあげるための時間と空間そのものである.
一人一人の内側で自分というものをつくる.
その意味で大学は大人への関門である.やりたいことを考え,適切な大学・学部を選定し,勉強に打ち込む.

考え,その上で最善を尽くす,それがあなたの受験勉強だ.


スポンサーサイト
[ 2006/10/01 15:54 ] ビジネス・情報 | TB(0) | CM(0)

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://info20061001.blog77.fc2.com/tb.php/61-679ee3ab





上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。